ちりめんじゃこの命

仮想のアドレナリン

食事という行為

食事が苦手だ。

さらに言うと人との食事が苦手だ。対面だと特にキツいものがある。

食事をする相手によるのではないかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。

食べ物を口に入れて咀嚼をするという行為が苦手なのである。それは時と場合によるものなので、基本食べれるときは食べれる。体の体積は増えるだけだ。

 

食事は生きていくうえでは大切だ。

中学生のとき給食が食べたくなくて泣いてしまったことがあるが、その時に同級生から「食べれない人もいるんだよ!」と諭された。当時は仕方ないよな……食べれることに感謝しなきゃ……!なんて思うことはなく、

うるせ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!!!!!!

と心の奥底では思っていた。

 

 

 

私は食べるのが遅い。

給食のときは昼休みまで残って食べていたのは当たり前。

ひどいときは五時間目が始まる掃除の時間までのろのろと食べていたことがある。

マイペースすぎる私がいけないのはわかっているのだが、あの時の先生の驚いた顔が今でも忘れられない。先生、その節はすいませんでした。

 

そんなこんなで、のうのうと生きてきた。

誰かと食事をすると、だいたい相手が「ゆっくりでいいよ」と言ってくれるのだが、余計に焦る。「無理しなくていいよ」とも言われると、なぜか安心してしまい満腹になってしまうのである。

先日も「こんないっぱい食べられるかな……」とファミレスのメニューを見ながらそんなことを言ったら、母から「残してもいいよ」と言われた。「無理しなくていいよ」とは違うが、なんだかストンと落ちるような感覚になった。腑に落ちるってこういうことなの?(しかしもったいないので、その日は注文したものは全部食べた)

 

「無理しなくていいよ」は私にとっては魔法の言葉である。

 

 

 

著者:うさぎなべ

暴走機関車